善財は恐る恐る口を開いた。
「あなたが……徳雲比丘なのですか?」
「ああ、たぶんな」
「たぶん?」
「今ちょっと忙しくてな」
徳雲は空を見上げたまま言う。
「西の方で説法が始まった」
善財もつられて空を見た。
だが、
雲しかない。
「え?」
「おお、始まった始まった。
今日はずいぶん人が多いな」
徳雲は何度か頷いた。
まるで、
本当に誰かの話を聞いているようだった。
善財は眉をひそめる。
(……何だこの人?)
すると徳雲が、
ふいにこちらを見た。
「おぬし、
“同時視聴”という言葉は知っとるか?」
「どうじしちょう?」
「芝居でも見世物でも、
何でもよいが――」
徳雲は指を二本立てた。
「普通は、
ひとつ見ておる間は、
他は見えん」
さらに指を増やす。
「だが、
世の中には一度に百も千も見える者がおる」
善財は首をかしげた。
徳雲は笑う。
「言うなれば、
“全チャンネル同時視聴”みたいなもんじゃな」
善財は数秒黙った。
「……何を言ってるんです?」
「ワシにもよく分からん」
徳雲はあっさり言った。
「ただ見える」
そして再び、
どこか遠くを見る目になった。
「南の世界では、
今ちょうど、
菩薩がひとり泣いとる」

善財は息を呑んだ。
徳雲の目には、
冗談を言っている様子がまるでなかった。
善財は、
目の前の老人をまじまじと見つめた。
粗末な衣。
草履は擦り切れ、
袖口もほつれている。
どう見ても、
世捨て人のような山の老人だった。
だが――
時おり見せる視線だけが異様だった。
何かを見ている。
いや。
“何かたち”を同時に見ている。
そんな感じがした。
徳雲は、
ふいに右を向いた。
「あー……
そっちは今、ちょっと荒れておるな」
「え?」
「槍を持った連中が寺へ押し入っとる。
ありゃ止められん」
善財は思わず周囲を見回した。
もちろん、
山道しかない。
寺もなければ、
槍を持った人間もいない。
徳雲は今度は左を向く。
「おお。
こっちは綺麗じゃなあ」
少し嬉しそうに笑った。
「蓮が一面に咲いとる。
風まで金色じゃ」
善財は、
何も言えなくなった。
冗談を言っている顔ではない。
夢を語っている顔でもない。
まるで本当に、
“見えている”ようだった。
徳雲は再び善財へ目を戻した。
「おぬし、
“仏”というと、
どんなものを想像する?」
「え?」
突然の問いだった。
善財は少し考える。
「……悟りを開いた方、です」
「うむ」
「人々を救うために教えを説く、
偉大な修行者で……」
「うむうむ」
徳雲は頷きながら聞いている。
だが、
どこか上の空でもあった。
途中で急に、
誰もいない空間へ向かって手を振ったりしている。
善財は不安になった。
(大丈夫なのか、この人……)
徳雲は言った。
「では、
仏は何人おる?」
「え?」
「一人か?
二人か?」
「それは……
たくさんおられるとは思いますが……」
「“たくさん”では足りんな」
徳雲は笑った。
「今この瞬間にも、
数え切れんほどの仏が、
あちこちで説法しとる」
そして、
ぽんぽんと自分の頭を叩いた。
「で、
ワシはそれを見とる」
善財は固まった。
「……全部ですか?」
「全部」
「同時に?」
「同時に」
「そんなこと、
できるんですか?」
徳雲は少し考え込んだ。
「うーむ……
できるというか……」
困ったように頭をかく。
「気づいたら、
そうなっとった」
善財はますます困惑した。
山の風だけが吹く。
木々がざわめく。
鳥の鳴き声が遠くで響いた。
そして善財は、
正直に言った。
「……何ひとつ分かりません」
徳雲は腹を抱えて笑った。
「うむ!
安心した!」
「え?」
「分かった気になっておる顔だったら、
どうしようかと思ったわ!」
そう言うと、
徳雲は急に真顔になった。
「少年よ」
空気が変わる。
つい先ほどまで、
どこか掴みどころのなかった老人が、
突然、
底の見えない深さを見せた。
「世界は、
おぬしが思っておるより、
ずっと広い」
徳雲の瞳の奥で、
何かが瞬いた気がした。
星空のような、
無数の光。
「そして仏というものも、
ひとつではない」
善財は息を呑む。
徳雲は静かに言った。
「“正しい答え”をひとつだけ探そうとするうちは、
まだ入口にも立っておらんのだ」

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★ペーパーバック版『別訳【夢中問答集】(全3巻)』遂に完結!!
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